郷愁の満州 密山駅爆破事件

郷愁の満州 密山駅爆破事件

邦人が旧満州で受難した事件で、集団受難人数の多い私の係わりがある事件がある。
突如、ソ連が侵攻したのが1945年8月9日、のどかな辺境の国境、現在黒竜江省、当時は東安省東安駅とよばれた駅の近くにも、ソ連軍は迫りつつある時に事件が起きた。

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上官の命令で点火!
   元関東軍兵士の証言 
          東安駅爆破事件

 中日新聞が平成17年度の終戦記念日をを中心とした戦後60周年を記念して、子や孫の後世に残す戦争体験を募集していた。8月17日付けの”子供たちよ!”のコーナーにタイトルが「列車動かず爆破の犠牲」という、文字に見入った。
 60年を経た本年に貴重な体験が語られていた。それは「密山駅爆破事件」の弾薬に点火をしたと言う元兵士の昭和20年8月10日の事件の顛末が語られていた。その主は岐阜県大垣市にお住まいの藤田年樹さん(当時83歳)であった。

 中日新聞と直接お会いしてお聞きした話を総合して以下にまとめてみた。お約束の日にはわざわざ大垣駅までお迎えをいただき恐縮した。たたき上げの下士官であろうと推察が出来る風貌と、はきはきとお話になられる記憶力には、重要な任務を与えられた役割は、さもあらんと納得し、貴重な証言を傾聴した。

 藤田さんが内地で初年兵教育を受け、派遣されたのが満州国東安省東安市の西東安の部隊であった。軍都東安といわれるくらい、司令部をおいた関東軍の要であって、飛行場を備え、強力なソ連軍と対峙していた。まさに”国境の街”ひとつ山越しゃ他国の星がまたたく、故郷を遠くはなれた地の果てであった。

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現密山市に残る旧関東軍 東安司令部

 昭和20年8月9日の東安駅(現密山市)
 時を経て昭和20年8月9日、突如ソ連軍が交わした不可侵条約を破って満州領に侵攻した。一斉に国境線が破られて、東安市の邦人にも退去命令が発令される。
 虎林線の各駅から避難列車が編成されて、南へ南へと避難が始まった。藤田年樹氏は終戦間際には下士官として東安駅司令部に転属されていて、すでに主力は南方前線に火力ともども移って、後は案山子の部隊であった。内地から配属される初年兵は、武器はおろか水筒も竹筒であったという。いかに国力が逼迫していたかがうかがえる。

 私たち一家は開戦の日、親父が兵隊にとられた軍人家族と言う団体で、9日の夕刻に屋根付きの客車に乗って東安の街を離れた。朝のソ連参戦の報を聞いてからのあわただしい一日であった。
 旧満州での最大級の悲劇、東安駅爆破事件は明けて10日に発生した。
 ありとあらゆる機関車と客車、貨車が調達されて多くの避難の邦人を南下させた満鉄関係の苦労された体験記もいくつも読んだ。それでも当時の省都であった東安の邦人全員、また離れた奥地から陸続とよってくる開拓団の人々全部が汽車による避難は当然無理なことであった。
 そんな時に、虎林からの無蓋車が東安駅に避難する人を満載で待機していた。この汽車が東安駅での最後の避難列車であった。藤田氏の記憶では15両ほどの編成であったと言う。

 「駅司令部の最後の任務は、駅に積んであった幾種類かの弾薬を侵攻するソ連軍に利用されないように爆破し処理することであった。それは戦場においては当然のことであった」
 「導火線に火をつけ、すぐに最終列車に乗りこんで出発すれば、列車が駅を離れた後に爆発し、避難民も軍も巻き込まれないという計画であった」

 藤田氏の証言は将校が一人、下士官としての藤田さん。兵数名に軍属としての電話交換手の近在の開拓団のお嬢さんが二名の7名であったと記憶を語られた。今まで東安駅の関係者も弾薬に火をつけた軍の関係者についての委細を知る人はいなかった。憲兵と言うのが今までの通説であった。

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            満鉄の機関車(絵葉書より)

 運命の最終列車
 「上官の命令で指令部員が点火」
 「ところが計画通りに発車しない!現地人の機関士は「蒸気が出ない。列車が進まない」という。なれぬ満語のやりとりの数分後、天をつくような大爆音がとどろき、ものすごい爆風に襲われた」という。
 「とんでもないことになったと思った。後方の五、六両は吹っ飛んで、多くの人が死傷した。砲弾は次々と誘爆し、三度ほど大爆発を起こした」
 
 東安駅まで集結したものの、汽車に乗れずに徒歩で勃利街を目指して歩く人々にも、遠くから爆発音と湧き上がるきのこ雲が望見できたという体験談を読んだ記憶がある。そのくらい凄まじいものであった。

 「列車は屋根のない無蓋車で、火の粉は頭上に降りそそいだ」
 「生き残った人たちは、誘爆が続くのを恐れ、「早く列車を出せ」と必死でした。これ以上の被害者を出してはいけないと、負傷者を救護せずに出発。非情な対応と思われるでしょうが、極限の状況では最善だったと、今でも自分の心に言い聞かせています」

 「列車は残りの十両ほどで出発し、夕方ごろには三十~四十キロ先の駅に着きましたが、ソ連軍機の機銃掃射に遭い機関車が大破しました」

 その後は新京まで南下して、進駐のソ連軍により武装解除をうけて抑留され、シベリアから後に帰還された。
 このたびの中日新聞による読者の戦争体験を語り継ぐ特集のなかで、投稿をされた藤田さんに取材の記者が、
 「このような重要なことをお話されて、もし関係の遺族の方などから責められる可能性もあるが、そのようなことがあったらどうされますか?大丈夫ですか?」
と念をおされたという。

 藤田さんは「もうこの年になって、いまさら隠れたり、無言であっても仕方のないこと、堂々とお詫びをしたい」
「夏空を見上げると、東安駅の「あの日」を思い出します。砲弾は退却時に処理するのが戦時下の常識とはいえ、あれほどの犠牲が出ることになるとは・・・」
「悔やむ気持ちは消えません。あの日の記憶がある限り、私の終戦はないのです」

 このようにおっしゃった藤田さんは、日ごろの運動不足の私より足取り軽く、ふたたび駅までお見送りをいただいた。

 私とて、いまさら東安駅で半世紀前に手違いによる事件であって、肉親でもない人たちの死に関して、特別な思いを寄せたところで、どんな得にも損にもならぬことだが、乗客名簿があるわけでもなし、人数さえも確認できない混乱の中、生きるものはどこかで死を迎えるであろうという、自然の成り行きであるにせよ、あの場所に何度も行かされる自分の心が、何かを残せたらと、小さく思えるだけのことなのだ。

 誰かが、という役目が、天が与えた私への役目であったかもしれないし、そうであったら役不足だが、幾らかでも東安駅の六十年前におきた、邦人犠牲者への慰霊になれば幸いだ。
 
                平成17年11月記

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現在の密山(東安)駅2004年 ガイド「姜」さんと。以前は密山市の職員として案内してくれたが、今回は脱サラで自営の旅行社の社長であった。
















この記事へのコメント

ぐーたら爺
2017年08月10日 13:44
こんにちは
BLOGを開設されているのですね^^
情報盛り沢山、ゆっくり拝見させて頂きます。
yoshi
2017年08月10日 17:04
arigatougozaimasu











ありがとうございます。

拙い記録です。ご笑覧ください。今なら少しは増しかも・・・



ローラ
2017年08月21日 09:50
やっと、この場所を見つけ、爆破事件読ませてもらいました。
これからもご活躍ください。

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